”の”の例文
①私”の”目は、切れ長です。
②(妻や夫、彼女や彼氏に向かって)「目きれいだね。あなたの目は私が独占したい。この目は私”の”目だよ。」
この二つの文では、同じ
私”の”目
が使用されています。
同じ”の”が使用されていますが、意味は違うと思います。
”の”の意味
②の”の”は文脈から所有を表す”の”を意味しているといえます。
①の「私”の”目」も同じく所有を表す”の”を意味しているように見えますが…(私の結論は否定です)。
所有とは、
自分のものとして持っていること(広辞苑 第七版)。
自分の物として持つこと(大辞林 第四版)。
とあります。
具体例としては、
私の自動車
私の鉛筆
私のスマホ
私の時計
私の家
私の土地
などがあります。
私が持つ自動車
私が持つ鉛筆
私が持つスマホ
私が持つ時計
私が持つ家
私が持つ土地
事実の報告として、問題なく正しい日本語と認められます。
ここからわかることは、「所有」という言葉は「私」の外にある物を持つ場合に使用される語だということです。
自分の身体の一部を所有する?
では、自分の身体の一部を所有すると表現することは可能でしょうか?
私“の“目=私が持つ目
事実の報告としてそういう表現は使用しないように思います。私の身体は、「私」を構成する要素ではないでしょうか(私の意識のみを「私」と把握し、それ以外は「私」の外部だと捉える考え方もありうるところで、もしそう考えるのであれば、「私の目」というのも「私が持つ目」と表現することは問題なく認められるでしょうけども)?
私の身体の一部である目が「私」の構成要素であるとすると、「私」の構成要素である目は「私」自身ということになり、「私が持つ目」という所有表現はおかしな表現となりそうです。
そうであれば、
私の目は、切れ長です。
という文は、私自身を構成する「目」の特徴を述べる文で、そこでの“の“は「所有」の意味の“の“とは違うことになりそうです。
所有を表す“の“ではなく、構成要素(全体の一部)を表す“の“だと理解した方が良さそうです。
臓器移植の文脈では…
臓器移植の文脈だと、次のような表現が可能になります。
私の死後、私“の“目の角膜を、他人へ移植することに同意します。
この文が正しい日本語であることに争いはないでしょう。
この文脈では、「私」と私の「目」とは分離していることになります。所有の対象としての自分の「目」としての表現です。
わずか一語の“の“ですが…
わずか一語の“の“ですが、文脈により変わってくるので日本語も奥深いなと思います。
---終---
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